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DOCUMENTARY

the Shining Lady

the Shining Lady

2015.07.01 - 2020.02.01

「艶女」

つやめ、と読む。だから「the Shining Lady」というタイトル。ちなみにずっとニコニコしてるというお姉さんがいて、名前は楽女(らくじょ)さん。

私が幼い頃から、近くに住まう祖父母にはかわいがられてきた思い出があって、遊びに行くとおばあちゃんが小さながま口に貯めておいてくれた500円玉をお小遣いにもらった。日本画がライフワークだったおじいちゃんは戦争で満州に行っていた人で、そこでのスケッチを描いたスケッチブックとたくさんの絵を残して私が高校生の時に亡くなった。亡くなる前、入院している祖父を見舞うとき、祖母が「もうおじいちゃんに会わん方がいいかもしれん。みっちゃんがしっちゅうおじいちゃんじゃなくなっちゅうき。」と言った。祖父は暴れるからとベットに拘束されながら、喉の管を外して、と全力で訴えていた。

その後何年も経ったけどいまだに、叔母と母は、おじいちゃんはいっぱい家族にしてくれたのに、最期ちゃんとしちゃれたろうか、という話をする。

2010年ごろ、認知症を祖母は発症し始めた。当時まだ一人暮らししていた祖母に母が通い、身の回りのことをしていた。「当たり前のこと」ができなくなった祖母に母は戸惑ってその感情をぶつけることもあったし、祖母の方もやりたくないことを強要されたりやりたいことを制限されたりすることに怒っていた。叔母は県外で結婚して家族がいた。まだ東京が拠点だった私はどうしていいかわからなかった。

祖母を撮ろうと思ったのは、2012年にあるワークショップに参加したことがきっかけで、写真家として活躍したいみたいな気持ちもあったと思うし、祖母の件だけだはなく家族自体へのコンプレックスみたいなものもあったと思う。

グループホームに入居していたはずなので、ある意味すでに安定していた。母は一定量の責任を施設の方々に預け、祖母も安定する薬みたいなのを飲んでいたと思うし施設の方も良くしてくれていた。それから8年くらいは同じ施設でお世話になり、母はほとんど毎日施設に通って30分くらい、お菓子を食べさせたり叔母からの手紙を読んだりして時間を過ごしていた。

私が誰か(孫か、娘か、兄弟か?)わかる時もあるしわからない時もあるし、会話らしいものが成り立つ時もあれば返事してくれない時もあった。大きめの声で意味はよくわからないけどリズムが良かったり、なんか強かったりするのを「独語」とみんなが呼んでいて、面白くて好きだった。独語では「天皇陛下」と弟の名前がよく出てきていて、おばあちゃんそんな天皇陛下が好きやったがやね、どの天皇陛下かわからんけど・・・とみんなで話した。

ずっとこのままの日々が続くんじゃないかと思うくらいだった。けれどゆっくりと祖母は老いていって、食べることが大好きだったのに量が減っていき、いよいよ「入院」せざるを得なくなってきていた。

入院してからは本当に寝たきりで、あまり喋らなくなっていた。それから2年経たないくらいで、病院から夜に呼ばれて朝方ゆっくり亡くなった。2020年1月、ちょうど100歳だった。私の父と母と私がいたけど、誰も泣かなかった。慣れない色々が待っている緊張感もあったけど、祖母に対しては寂しくなるけどお疲れ様、の気持ちが強かったと思う。

コロナが流行る直前だったのでお葬式にも親戚みんな来られて顔がみられたのも良かった。焼かれてお骨になった祖母を見ると、意思疎通できなかったりリアクションがなくても触れられていただけでもよかったんだな、と思った。

 

 

数日前久しぶりに会った友人に、「おばあちゃんかっこよかったなぁ。大正から100歳まで生きて。戦争から戦後から全部経験してはるねんで」と言われて、少しびっくりして泣きそうになった。目の前にあるおばあちゃんのことしか見てなくて、私が見てない、ずっと前からの、産まれて成人してお母さんになって言った祖母を想像させられて。

撮影地高知県高知市

撮影時期2012-2020